赤水は、享保二年(一七一七)に水戸領赤浜村(高萩市赤浜)の農家に生れ、享和元年(一八〇一)まで地理学の先駆者として活躍しました。子どもの頃は体が弱く、不運にも弟・母・父にも先立たれてしまいます。その逆境に耐え、赤水が学問に専念できたのは継母の支えによるものです。さらに、地元の鈴木玄淳や柴田平蔵、水戸の名越南渓など良き師友にも恵まれました。
四十歳半ばには、時代を先取りした研究への批判に遭い、学者の道を絶たれそうになったこともあります。しかし、並外れた努力が報われ、水戸藩第六代藩主徳川治保の侍講(おそばに仕える先生)に抜擢され、江戸小石川の水戸藩邸に住まい、儒学・地理学・天文学などを教授しました。
そして、当時としては地の果てといってもいい東北や長崎の旅の経験を基に、渋川春海・森幸安らの日本地図を参考にし、奥州道を行きかう旅人や高山彦九郎、木村蒹葭堂、古川古松軒などから得た情報を整合させ、緯線経線を付した新しい日本地図を完成させました。測量することなく情報のみで作成されたこの日本地図は大阪から発刊され、後世、赤水図と呼ばれ、旅人や幕末の志士たちの大いなる道しるべとなったのです。
侍講として江戸に赴いた翌年六十二歳の時、農民生活の窮状を水戸藩主に命をかけて上奏し、農政や藩政の改善に尽くしました。退官後、八十歳まで藩主の特命を受け、大日本史地理志編纂に専念した後、生まれ故郷の赤浜に隠居しました。
赤水没後、かのシーボルトも赤水図を海外に持ち出し、今でも欧米の博物館や大学に大切に収められています。
赤水図の約半世紀後に作成された伊能忠敬の日本地図は幕府が非公開としたため、赤水図が江戸時代から明治時代初期まで広く世に用いられました。幕末の吉田松陰も赤水図を頼りに旅をし、赤水のお墓をお参りしています。
ここに、多くのご賛同をいただき、赤水先生の逆境を乗り越えた勇気と努力に学び、東日本大震災を乗り越える復興のシンボルとして、銅像を建立いたします。
平成二十四年(西暦二〇一二年)十一月 文化の日 長久保赤水先生銅像建立実行委員会
長久保赤水とは
長久保 赤水(ながくぼ せきすい、本名:玄珠、俗名:源五兵衛、享保2年11月6日(1717年12月8日) - 享和元年7月23日(1801年8月31日))は、江戸時代中期の地理学者、漢学者である。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。
農民出身であるが、遠祖は大友親頼の三男・長久保親政。現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる。
学問を好み地理学に傾注する。安永3年(1774年)、『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を作成。この修正に努め、安永8年(1779年)、『改正日本輿地路程全図』を大坂で出版し、その普及に努めた。
この間水戸藩主徳川治保の侍講となり、藩政改革のための建白書『農民疾苦』の上書などを行った。天明5年(1785年)には世界地図『地球万国山海輿地全図説』や中国地図『大清広輿図』も出版している。いずれも実測図ではないが関連文献が深く検討され、明治初年まで版を重ね普及している。天明6年(1786年)、徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の地理志の執筆も行う。師である鈴木玄淳らとともに、中国の竹林の七賢になぞらえ、松岡七友と称される。
略歴
1717年、常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)の農家に生まれる。
1732年、鈴木玄淳の私塾に入り漢詩などを学ぶ。
1735年、水戸藩の儒学者、名越南渓に師事。
1753年、松岡七友として水戸藩から賜金を給せられる。
1760年、東北地方を旅し旅行記『東奥紀行』を著す。
1767年、長崎行きを命じられる。『長崎行役日記』『安南漂流記』を著す。
1768年、水戸藩の郷士格(武士待遇)に列せられる。
1774年、ほぼ日本沿岸の地形に合った『日本輿地路程全図』を作成。
1777年、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住む。
1778年、建白書『農民疾苦』を上書する。
1779年、『改正日本輿地路程全図』を刊行。
1786年、藩命により『大日本史』の地理志の編集に従事する。
1801年、赤浜村で死去。
改正日本輿地路程全図
『改正日本輿地路程全図』は、安永3年(1774年)に長久保赤水が自ら作成した『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を修正し、安永8年(1779年)に初版を大坂で出版した地図。日本人が出版した日本地図としては初めて経緯線が入った地図で、作成者名から通称『赤水図』と呼ばれる。これ以前に、江戸時代中期頃の地図考証家・森幸安によって描かれた『日本分野図(日本地図)』にも経緯線が入っており、この地図にならって経緯度線を入れて出版したとされる。
『幸安図』も『赤水図』も、当時未開拓であった北海道は描かれていない。また、緯線には緯度が記載されているが、経線には経度は記載されておらず、京都御所を基点に経線が引かれていると考えられる。『幸安図』や後に作成される伊能忠敬の地図なども、京都を基準に経線が引かれている点で共通点が見られる。10里を1寸としているので、縮尺は約130万分の1となる。6色刷で、蝦夷(現在の北海道)や小笠原諸島・沖縄を除く日本全土が示されている。
赤水図は、伊能忠敬の地図より42年前に出版され、明治初期までの約100年間に8版を数えた。伊能の地図はきわめて正確であったが、江戸幕府により厳重に管理されたこともあって、この赤水図が明治初年まで一般に広く使われた。実測図ではないので、沿岸部のほとんど全てを測量した伊能の地図には劣るが、20年以上に渡る研究の末、完成した地図は、当時としては驚異的な正確さといわれている。
赤水図は広く出版されたためドイツ国立民族博物館のシーボルト・コレクションや、イギリス議会図書館など海外の博物館等にも多く収蔵されており、当時の欧米において日本を知る資料として活用されていたことが伺われる。
現在、日本と韓国の間で領有紛争となっている竹島が当時の名称「松島」で記されており、日本の領有を裏付ける資料としてしばしば引用されている。
ウィキペディアより